『ルポ 中年童貞』に対する革非同的雑感 〜中村氏の経験を通し、見えてきた本当に必要な社会制度と再確認された我々革非同の存在意義〜

 皆様こんにちは、ご機嫌いかがでしょうか。自称「すべてのモテない人々のための心のセーフティネット」こと革命的非モテ同盟です。
 さて、この度(先日漫画版でも出版され話題の)中村淳彦(2015)『ルポ 中年童貞』(幻冬舎新書)を拝読いたしましたので、革非同として思う所を二点ほど書き連ねたいと思います。

 まず一つ目の意見ですが、本書において中年童貞の具体例として登場している人物はほぼ全員発達障害等の疾病を抱えていると思われるという点です。我々が彼等に直接会って話をしたわけではないので確証はもてませんが、本書内に登場する彼等の性格を評した記述、たとえば「スイッチが入ると、話が止まらない」「空気を読むとか、相手の顔色を窺うことは一切しないタイプのようだ」「子供の頃から融通が利かず正義感が強い」「プライドが高く、一般的な客観性などまったくなかった」といったものはいずれも発達障害等の特徴を良く示しており、可能性は極めて高いと考えます。そしてその疾病故に社会では生きづらく、女性とは関わりづらく、多くの良質なコミュニケーションを要求される恋愛などもってのほか、そして結果として中年童貞へと「転落」していったというのが彼等のあらましであるように思います。つまり彼等は「中年童貞である以前に何らかの疾病状態」と言われるべき状況の可能性があるのです。

 そしてもしそうであるならば、中年童貞の問題は極めて複雑なものになると言えるでしょう。何故ならば、発達障害等の疾病は根治が見込めず、それ故に単純に彼等への人格非難を行いその矯正を求めるといった態度では決して解決しない問題であるからです。

 なお、誤解を避けるために記しておきますが「中年童貞問題とは疾病が関わる事なので安易に語るべきではない」というようなタブー視を志向するという意味ではありません。問題の解決を図るならばそのような事情も踏まえた上で考えてゆくべきではないかという事です。
 具体的な解決策を挙げるとすれば、本文に登場したネット右翼中年童貞の宮田氏が指摘していたベーシックインカム(著者は「極端な制度」と疑問を抱いていましたが)などは有力な手段となりうると考えます。
 発達障害等を抱えるなどして、過剰なコミュニケーション能力を要求する現代の労働市場に適合できない個人の立場からすれば、生活のためとは言え明らかに自らに不向きな仕事を無理に続けることで心身に負担をかけ、やがて破滅してしまうというリスクを回避出来ることになりますし、労働市場の側からすると、個人が無理に働かずとも良い環境が出来ることで労働に適合出来ない人物が労働市場に現れず、人材のミスマッチで発生する諸々のリスク―本文に登場した坂口氏のような人物が引き起こすトラブル―を回避できる事になりましょう。労使双方にとってこのようなメリットの有る方法として、ベーシックインカム論には一考の余地があるのではないでしょうか。

 最後に記しておきますと、実のところ著者は上で述べたようなことは承知の上である、つまりモテない人達の問題の根底にあるのが発達障害等である可能性が高いということを理解している上で、デリケートな問題へと発展しがちな「発達障害等の疾病」への攻撃を忌避すべく語感として攻撃しやすい「中年童貞」というカテゴリーを創り出したのではないかとも我々は推測しております。
 著者が意図的に「発達障害等の疾病への攻撃」から「中年童貞への攻撃」に照準をずらしているかどうかは検証不能なのでこれは単なる憶測に過ぎないのですが、いずれにせよ中年童貞とは発達障害をはじめとする難解な精神疾患を原因としているケースが決して少なく無いと想像される以上、単に感情論的な批判を行っているだけでは問題の解決に資さないのではないかという点は重ねて指摘致します。

 次に二つ目の意見ですが、そもそも中年童貞である現状を無理に「改善」する必要があるのだろうかということです。僭越ながら本書を読んだ限りでは、中年童貞から抜け出さなければならない客観的な理由を見出すことは出来ず、単に彼等に対する不快感や嫌悪感をにじませただけの言説に陥ってしまっているように感じられました。それは著者の雑感の範疇に留まるものであるならば構わないのですが、彼等に恋愛や結婚を強いる理由には値しません。あまつさえ本書にも書かれているように「本人たちはいたって幸せそうだった」のであれば、なおさら現状を「改善」する意義が無いと感じます。

 加えて指摘しますと、著者はオタク産業やAV産業といった産業が中年童貞の人生を型にはめ込んで消費活動を支配されている構造に不快感を抱いておられるように受け取れるのですが、しかし果たしてその事が、非モテの消費活動をリア充のそれに比して程度の低いものと見做して良い理由になりうるのでしょうか?我々非モテの立場からすると、恋愛や結婚やその後の家庭生活といった「型」に我々の人生を無理やりはめ込もうとする構造にこそ悍ましい―そして恐らく著者が中年童貞(非モテ)に抱いているであろう物と同じような―感覚を覚えます。社会において典型的人生として想定されている恋愛、結婚、出産、マイホーム購入、子供の入試等々、これらとて人生をはめ込む立派な「型」であり、この分野に関わるビジネスの数や経済規模の巨大さはオタク産業やAV産業の比ではないでしょう。つまり人生を型にはめ込まれて消費活動を支配されているのはリア充界隈とて構造的には同じであり、規模的には非モテ界隈より遥かに巨大なのです。

 殊に恋愛行為が、資本主義的な市場競争原理に取り込まれてしまう状況は本田透がその著書『電波男』において「恋愛資本主義」として提唱した通りです。また「オタクコンテンツがセーフティネットになっている」という本文における指摘は、本田の言う「萌えによる恋愛市場からの脱却」と地続きになっています。このセーフティネットを中年童貞から剥奪し彼らを恋愛市場に放り込むことに何の社会的意義があるでしょうか?

 「恋愛や結婚をしない自由というものを尊重しないのは差別的なのではないか?」

 この個人の自由と多様性を尊重すべき社会では、そう問うことに社会的意義があると言えます。そこで最もひっかかるのが本書の最後のページに書かれた「生物的、社会的、人間的、産業的に死を迎えることはあってはならない。“個人の自由”を超えて優先して考えられるべき事案である。」という文です。もちろん加藤智大のように無差別殺人事件を起こし凶悪犯罪者に身を落とすことで社会的自死を選ぶような事は論外でありましょうが、苦手で仕方がない恋愛も結婚もしないで社会にもできるだけ関わらないという「緩やかな社会的自死」を選ぶ自由までもが認められないというのであれば、我々非モテにとってはあたかも国家社会主義国に生かされているかの如き耐え難い息苦しさを感じることになるでしょう。そしてこのような非モテ、中年童貞の価値観に不寛容な空気がある限り、我々革非同は、恋愛や結婚をしない自由を勝ち取るための活動を続けてゆくことになろうと確信します。

 労働に不適合な人間がうまく労働市場に参入“しないで済む”ベーシックインカムを「制度としてのセーフティネット」として推進すべき意義があるのと同様に、恋愛に不適合な非モテがうまく恋愛市場に参入“しないで済む”社会の推進、言わば非モテダイバーシティ社会の実現を求める運動体として革非同は存在する意義があります。運動体であり続けることが自称「心のセーフティネット」たる所以です。

 以上の二点を革非同からの感想および意見とさせていただきます。
 本書は中年童貞の可視化という問題提起とのことなので、この度はそれに対し多くの非モテや中年童貞を知る団体である革非同としての意見を提示させていただいた次第です。主張の随所に拙いところがあろうかと思いますが、今後ともご活動を継続されるとのことですので何らかの参考にして頂ければ幸いです。